初代会長は高山重城さん(後に片の瀬郵便局長)。日頃から赤ふんどしに高下駄、腰に大煙管といったいでたちの「風雅人」として知られていました。背に河童の顔を染め抜いた濃いうぐいす色の法被の裾をひらつかせ、15日には葦平の招きによって高塔山で行われた若松カッパ族の集まりに11人が参上し、町をのし歩き、人々をあっといわせました。
会費は「胡瓜代、皿用特級水」。河童族は、いつも遊びの精神に満ちあふれ、酒を片手に飄々と夢を語っていました。田主丸河童族が掲げた信条は次のとおり。
一、われらは、いとも仲好く相撲をとり、いとも楽しく嘴を交わし、この皿に、この世の中に、かっぱ天国を現世せん。
二、われらは、おのれのかなしき性をかなしまず、心うれしき宴にうちつどい、ひょうひょうと鳴き、飄飄渺渺として楽しまん。
三、われらは、文明開化の荒波をけとばし、ふるさとの山川の妙なる美しさに沈潜し、心はろばろ心ゆたかに生きぬかん。
四、われわれは世の習俗にみじんも動揺せず、河童の伝統と精神を継承し、茶を啜り酒酌みかわし、清談放話つきることなく、わが生活をエンジョイせん。
五、われらは、常に河童的共存を主張し、本家争い縄張り争いをやめ、泥沼のごとき人間社会の浄化をはかり、夢多きロマンの世界を展開し、平和楽土の建設に邁進せん。
夜明ダムの完成とともに筑後川の流れは一変し、川を舞台にしてきた生業や人の流れは大きくかわりました。危機感を感じた田主丸の「河童」たちは、葦平の力を借りて酒を酌み交わしつつ夢を語っていました。そんな河童族は「楽生」の田主丸の名を広く知らしめた戦後のまちおこしの先駆者でもあったのです。