かつて、川は国境でした。筑前国と筑後国の間を流れる筑後川も、両国の間を流れることから筑間川と呼ばれた時代がありました。
「そもそも筑後というものは・・・」と語り出したのは、筑前の国藩役、河名交渉全権使何某。それに対して静かに座しているのが筑後国全権田主丸大庄屋菊池丹後、七十五歳の白髪巨眼の老人である。
丹後はかつて豊後柚木の熊度山の境界争い、また柳河立花藩との国境争いに使して傷を受けながらもひるまず、遂にその目的を達した老練政治家である。
時に寛永14年(1637)の春、所は田主丸法林寺の一室。幕府派遣の代官を中心に左右対座している大使並に従者どもの顔々。かくて数分。この緊張した静寂を破って筑前側の声が飛び出した。
「そもそも筑後川というものは。」と、それに間髪を入れず、受け返したのが菊池丹後の声である。
「そもそも筑後川というからには、河名の詮議もあるまいぞ」
と、この一言にて問題は解決してしまった。このことは代官から直ちに上申され、幕名によって「筑間川を改めて筑後川と改称す」と。寛永十五年四月吉日付である。
(『筑後川と人間の歴史』田主丸郷土会編)
この、機転によって筑後川の名を世に止めた菊池丹後こそ、田主丸町の開祖その人です。